ある感謝祭の日(サンクスギビングデー)に、
新聞を読んでいると、一つの記事が目に付いた。
それは、ある小学校の先生のこんな話だった。
その先生は自分のクラスの一年生達に
感謝祭にちなんで、自分達が感謝しているものを
絵に描くように言った。
しかし、正直なところ、この学校に通う子供達の
家庭は貧しく、感謝する物が何も無いかもしれない
と思った。
ほとんどの子供達が、太った七面鳥か、テーブルに
山のように盛られた感謝祭のご馳走を想像して
書いていた。
ところが、生徒の一人、ダグラスが書いた絵は
先生を驚かせた。
それは、子供っぽい単純な線を使った
『手』の絵だった。
一体誰の『手』なんだろう?
クラス全員がこのなぞめいた抽象画に
すっかり心を奪われた。
やがて、一人の子供がこう言った。
『きっと神様の手だよ。食べ物をその手一杯に
持ってきてくれるんだ。』
『ちがうよ。きっとお百姓さんの手だよ。
だって七面鳥を育ててるのはお百姓さんだもん。』
と別の子が言った。
生徒達は思い思いに想像をめぐらしていたが、
やがて静かに自習を始めた。
先生はダグラスのそばに歩み寄ると腰をかがめ
こっそり話しかけた。
『ダグラス、あれは誰の手だったの?』
『先生の手』
とダグラスの消え入りそうな声が返ってきた。
先生は休み時間になると、ひとりぼっちで
いるダグラスの小さな手をしばしば握って
あげたことを思い出した。
特別扱いしたつもりはないが、その手は彼を
とても幸せな気持ちにさせたのだろう。
私は、感謝祭とは、与えられた物や好意に
対して感謝する日だとばかり思っていた。
しかし、この記事のおかげで、感謝祭の
もう一つの意味がわかった。
どんなささやかな事でも、人に何かを
してあげるチャンスを与えられた事に
対して感謝する日でもあるのだ。
感謝祭(サンクスギビングデー)は、
アメリカとカナダの祝日の一つで、
私達日本人にはあまり馴染みの無い日
かもしれません。
その始まりは、イギリスからアメリカの植民地に
移住した移民達が、最初の年の冬に大寒波に会い、
大勢の死者を出した際に、近くに住んでいた
アメリカ原住民によって助けられ、
その翌年の秋に、助けてくれたアメリカ原住民を
招いて、一緒に神の恵みに感謝し、
ご馳走を食べたことが始まりだと言われています。
今では、そうした宗教的な意味はかなり薄れ、
家族で集まって七面鳥などのご馳走を
食べる日になっている感じもしますが、
毎年、感謝について考える機会があることは
素晴らしい事だと思います。
そして、感謝の対象として、
与えられた物や、好意だけでなく、
ささやかでも、誰かに何かをしてあげる
機会を得たことにも感謝することができる
というのは、とても素晴らしいと思います。
今、震災があったことで、誰かに何かを
与えよう、できることをしようという意識が
高まっていると思います。
でも、何をして良いかわからない。
何ができるかわからない。
お金もそんなに多くは寄付できない。
と思う人もいるかもしれません。
でも、寄付は1円でも2円でも、
少額でもできる範囲で良いと思います。
寄付できるお金が無くても、
できることが無くても
被災地の方の無事や、元気になること、
早急な復興に想いや意識を向けるだけ
でも良いと思います。
それじゃ何の役にも立たないじゃないかと
思われる人もいるかもしれません。
でも、私は想いや祈りの力を信じると
同時に、そうして想いを向け続け、
意識し続ける事で、その想いが広がり、
大きな力になると思っています。
それは目に見えない力だけではなく、
結果的に、多くの人が行動を起し始める
という一つのムーブメントになると
思っています。
今回、インターネットの力もあって
そうしたムーブメント、活動が、
世界にも巻き起こりつつあります。
そして、復興にはまだまだ時間がかかります。
今は、まだまだみんなの意識が高いですが、
これから先、本当の復興を考える上では、
このムーブメントを一時のブームで終わらせずに
その灯を灯し続け、広げていくために、
思いや意識を向け続け、言葉によって伝えることが
最も重要になってくると思います。
今回の震災に限らず、
身近な人に対しても、誰かに何かを与える事は、
必ずしも特別なものである必要は無いと思います。
気遣いの声をかける、手を差し伸べる
そんな些細なことでも、人の心を癒し、
自分を信じる力や、生きる力になることも
たくさんあります。
誰かに何かを与えられる機会を
与えられた事に感謝し、できることを
やっていきましょう。
きっと、今よりもさらに素敵な世界になって
行くと思います。